これまで、日本では外国から様々な影響を受けることで文明が発展したり、外国から入ってきた新しい文化ともともとあった文化が合わさって変化していきました。
そして、それは最近に限ったことではありません。
歴史を振り返ると、日本は弥生時代の頃にはすでに渡来人と呼ばれる、海の向こうからやってきた人々の影響を受け、様々な変化を見せていたことがわかるのです。
では、弥生時代に渡来人が日本に与えた様々な変化とは?
目次
そもそも稲はどこから?
弥生時代の頃、稲作が日本で広まり始めました。
そして稲作が始まったことがきっかけで、食料採取の時代から食料を自分たちの手で作る農耕の時代へと変わったり、貯蓄された食料をめぐって人同士が戦うようになっていったこともよく知られています。
こうして様々な変化を日本にもたらした稲作。
その稲作は大陸から日本にやってきた渡来人の人々によって伝えられたものでした。
では、渡来人が伝えた稲作ですが、そもそも稲はどこから日本にやってきたのでしょうか。
それは日本がまだ弥生時代ではなく、縄文時代の頃にまでさかのぼります。
中国大陸の北の黄河中流域でアワやキビなどを育てる農耕が起こり、更に南の長江下流域でも稲作が始まったことがわかっています。
そしてそこから朝鮮半島などに稲作が伝わり、徐々に稲作の文化や技術が広まっていったのです。
縄文時代でも稲作?
稲作が行われた時代といえば弥生時代であり、弥生文化の代表的なものも稲作です。
しかし、実は縄文時代にも稲作が行われていた地域がありました。
日本の一部で早くも稲作が始まったのは、弥生時代に近い縄文時代の終わりごろ。
渡来人たちが日本に稲作を伝えた最初の土地とされる九州の一部で稲作が行われていたことがいくつかの遺跡の痕跡からわかっているのです。
しかし、縄文時代に稲作を始めていたのはあくまで一部の地域のみ。
日本列島の多くの地域では稲作は弥生時代に伝わり、広まっていったものなのです。
稲作が伝わったルートは?
大陸から日本に稲作を伝えた渡来人。
しかし、その稲作を伝えたという渡来人がどこから日本にやってきたのかはいくつかの説があります。
まず日本に稲作を伝えた渡来人たちがやってきた場所の一つが朝鮮半島の南部だということはいままでの調査でわかっています。
というのも、朝鮮半島の南部の遺跡から見つかる遺物と、稲作がされていた日本の遺跡から見つかる遺物が共通していることがわかっているためです。
この調査からわかるように、稲作を伝えた渡来人がやってきた場所は朝鮮半島南部だったのです。
しかし同時にもう一つ、中国の長江下流域から直接やってきた渡来人もまた日本に稲作を伝えたという説もあります。
実は弥生時代よりも前から渡来人たちが日本に伝えていた稲作。
そして稲作は日本だけではなく様々な地域に広がり、伝えられていたのです。