弥生時代の人々の生活など、現在まで調査を続けていてもわかってないことは数多くあります。
邪馬台国がどこにあったのか、などはいまだにわかっていないものの一つです。
更に、実は弥生時代が始まった開始年代すらもはっきりとはきまっているわけではなく、弥生時代に代表される稲作は何年前から何年前なのか、という議論の結果、つい最近になって実際の稲作の開始年代がそれまでよりも前に訂正されたのです。
結局、稲作の開始年代は何年前から何年前に訂正され、それによってどんな影響があったのでしょうか。
弥生時代はいつから?
弥生時代の大きな特徴といえば、日本列島で稲作が始まったことがあげられます。
そして実はこの稲作は弥生時代にあった弥生文化の定義を決めることにも大きく関わっています。
そもそも、弥生文化は1910年代から1930年代まで、大陸から日本列島への移住者の影響によってつくられていった文化という考え方をされていました。
しかし、1930年代初めに弥生文化は全く新しい文化ではなく、下地にあるのは縄文時代の縄文文化であり、その上に大陸からの文化の要素が加わって弥生文化がつくられていったという主張がされ始めました。
そして、弥生文化の定義はそのどちらが正確なものなのか、はっきりとはいまだに決まっていないのです。
しかし、弥生時代の開始年代は大陸からの移住者が大きな影響を与えたことは間違いがない事なのです。
何をもって弥生時代?
縄文時代から弥生時代、そして古墳時代へと変わる中で、弥生時代が何年前から何年前の時代なのかを決めるにははっきり弥生時代の定義を決めなければなりません。
1978年に板付遺跡で水田が発見された時に、その水田が作られ、利用されていた時が縄文時代なのか弥生時代だったのかという論争が起こったこともあります。
もし、定義がはっきりしなかったら何かを発見しても縄文時代の頃のものなのか、弥生時代の頃のものなのかがわかりません。
そこで、弥生時代の開始年代を決めるために定められた弥生時代の定義が「水田が灌漑施設を持つか持たないか」という考え方でした。
そして定められた弥生時代の終わりは古墳時代の成立まで。
この定義からもわかるように、弥生時代が何年前から何年前だったのかという疑問に答えるには水田が大きな役目を果たすようになったのです。
開始年代はいつ?
そうして弥生時代が定義されたものの、それに欠かせない水田稲作の始まりが何年前からだったのかも議論と調査の中で変化していきました。
水田稲作の開始年代がもとより五百年近くも遡ったこともあります。
そして水田稲作が何年前から何年前にさかのぼったかによって、弥生時代の他の文化などにも影響が出てしまうのです。
例えば、水田稲作が五百年遡ったことによって、それまで考えられていたよりも稲作が日本列島に広まるスピードはゆっくりになったと考えられます。
弥生時代が一体何年前から何年前だったのかという疑問に答えるには、稲作がいつ始まったのか、ということが重要になってくるのです。