弥生時代では、稲作が行われたり食料をめぐっての戦いが起こるなど、様々な文化や出来事が起こり、目まぐるしい変化がおこっていました。
縄文時代の頃とは、様々な部分が違ってきていたのです。
しかし、一方で、沖縄や北海道の様子は日本列島の他の地域とは少し違ったようです。
いったい何が違ったのでしょうか。
北海道が選んだ変化とは
北海道や沖縄は、弥生時代の本州とはまた違った環境に置かれていました。
その違いのため、実は北海道や沖縄には弥生時代がなかったのです。
特に北海道では、弥生時代の文化の特徴でもある稲作が十分に広まりませんでした。
もともと、米が育ちにくい環境にあったからです。
そのため、本州のように稲作が十分広まらなかった北海道。
その北海道が選んだ道は、稲作ではなくアワ、ヒエ、ソバなどを中心に育てていくことでした。
更にカマドのある平面方形の堅穴住居に住むなど、本州が稲作を始めとする弥生文化の中にあった時、北海道では北海道ならではの環境に合わせたふさわしい暮らし方に変化していったのです。
なぜ「続」縄文時代?
そんな本州の弥生時代とは違う文化を育てていった北海道。
本州が弥生時代から古墳時代の頃の北海道は続縄文時代という時代であり、続縄文文化という文化がありました。
なぜ続縄文文化というのでしょうか。
それは、縄文時代に使われていた縄文土器の変化からわかります。
続縄文時代の頃の北海道には、まだ色濃く縄文時代の伝統が残っていました。
しかし、ただそれだけではありません。
縄文文化の伝統だけではなく、そのころには東北の弥生文化の影響を受けていることが見てとれるのです。
ただ縄文時代の文化などの伝統を受け継いでいただけではなく、東北の弥生時代の文化をも取り入れていた北海道。
縄文時代とは違いながらも、縄文時代の文化が色濃く残っていたために「続」縄文時代というのです。
道具からも見える文化の発達
本州の弥生時代とは違う文化や時代をおくることになった北海道。
そのため、弥生時代の本州とは違う、北海道ならではの道具も発達していきました。
北海道の続縄文時代の頃は食料採取の時代だったため、海産物などがとりやすい海岸や河川近くから多くの遺跡が見つかっています。
そこからは疑似餌として使っていたとされる魚型の石器も見つかっているのです。
更に、漁に使う道具としてより精巧になった銛や釣り針も発見されています。
それだけではなく、石製ナイフは柄部をつけた独特の形に変化していきました。
更に、磨製石斧は伐採用は両刃、加工用は片刃に分けられて使われていたことがわかっています。
海産物に恵まれた北海道では、漁に使う道具はもちろん、他の道具にも独特の変化がみられるのです。
弥生時代ではなく、続縄文時代のなかにいた北海道。
弥生時代の特徴である稲作がなかなか広まらなかった代わりに、北海道ならではの文化が発達していったのです。