学生の頃、歴史を学んだ方なら王朝という言葉を聞いた覚えがあるはず。
世界史などでよく出てきた王朝という言葉はどんなものか、覚えているでしょうか。
王朝とは、歴史の大きなまとまりを表すものであり、とある人物や一族がその国などを支配した時代を表します。
しかし、日本の歴史を学んでいく中で、世界の歴史とは違って王朝という言葉はあまり使われては来ませんでした。
日本ではあまり使われない王朝という言葉ですが、これまで全く関わりがなかったわけではありません。
例えば、弥生時代の日本は外国の王朝との交流があったのです。
では、いったいどこの、どんな王朝との関わりが弥生時代の日本にあったのでしょうか。
日本と王朝?
日本では、王朝という言葉で表される時代はそう多くはありません。
平安時代を王朝時代と呼ぶことがある位で、そのほかにはあまり日本の歴史の中で王朝という言葉が出てくることはありません。
ただ、世界の国では多くの王朝が現在までに現れました。
そして、その王朝の中でも、特に日本が弥生時代の頃に関わりを持っていたところがあります。
その日本が弥生時代だった頃に関わりを持っていた王朝のある国が、現在の中国です。
弥生時代の日本はそのころ、中国と深く交流していたのです。
中国の統一王朝誕生までの道のり
日本で弥生時代が始まったころだといわれているのは紀元前3世紀ごろのこと。
日本が弥生時代になり、人々の暮らしが変わっていく一方、世界でも大きな変化が起きていました。
例えば、中国大陸に目を向けると、争いが数多く起こっていたことがわかります。
当時の中国大陸は韓や趙、楚や秦などに分かれ、戦っていた時代だったのです。
そしてその結果、秦が勝ち残り、これをもって中国史上で初めての統一王朝が誕生したのです。
中国の王朝と卑弥呼との関わり
中国で初めて統一王朝が誕生してからも、中国大陸の状況はどんどん変わっていきます。
その間、日本は弥生時代のまま。
そんななかで、弥生時代の日本と、三国時代となった中国大陸との間には交流があったことがわかっています。
当時の日本は弥生時代であり、邪馬台国の女王卑弥呼が生きていた時代でした。
女王卑弥呼は中国大陸で魏・呉・蜀が並び立つ三国時代の頃に生きていた人物であり、その中の魏に積極的に使者を送っていたことがわかっています。
卑弥呼が魏に使者を送り、贈り物を受け取るなどの交流を積極的に行っていたのには、当時の日本にあった多くの国の中でほかの国よりも力を持つことが目的だったとされています。
中国最初の統一王朝が誕生したり、三国時代になったりなど、中国の状況や王朝がどんどん変わっていったころは、弥生時代だった日本でも多くの国が存在し、他の国よりも力を持とうと積極的に動いていた時代。
そしてそんな中国の王朝と弥生時代の日本とは交流を持っていたのです。