弥生時代の遺跡からはさまざまなものが発掘されます。
その中でも、弥生時代になって多く発掘されるようになったものが青銅器。
それらの銅鐸や銅矛などの青銅器は弥生時代の人々の祭りには欠かせないものでした。
いったい祭りにどのように青銅器が関わってくるのでしょうか。
弥生時代の祭りはいつ?
そもそも人々は弥生時代のどんな時に祭りをしていたのでしょうか。
当時祭りを行うタイミングとして代表的な時が2つあります。
一つは人が亡くなった時。
死者を弔うときに祭りが行われたのです。
そしてもう一つが稲作が始まった弥生時代らしく、豊かな収穫を祈願し、また、収穫を感謝するときに行われる神祭りです。
収穫が行われ、楽しかったとき、そして人が亡くなるなど悲しかった時に行われた弥生時代の祭り。
その祭りに欠かせなかったものがあります。
それが銅鐸や銅剣、銅矛などの青銅器だったのです。
実用品が祭りの道具に?
中国から伝わってきた青銅器。
その中国では青銅器は実用品として使われていました。
しかし、その青銅器は弥生時代の人々のもとで変化を遂げることになります。
実用品としてよりも祭りの道具として使われるようになるのです。
例えば銅鐸。
最初はつるして鳴らす、という使い方をしていました。
しかし、徐々にサイズが大きくなり、飾り立てられるようになります。
そのようにして実用性が失われた結果、弥生時代の人々は銅鐸を豊作を祈る祭器として使うようになっていったのです。
中国から伝わってきたときには実用品として活躍していた銅鐸。
しかし、弥生時代の日本で変化を遂げた結果、実用品としてよりも祭りの時に使われる祭器として進化を遂げていったのです。
収納の場所はなぜここに?
青銅器には多くの種類があります。
そしてその種類ごとに見つかる地域が違ってきます。
例えば、近畿地方でよく見つかるのは銅鐸で、九州の北部を中心に見つかるのは銅矛などの青銅器が多いことがわかっています。
また、集落の中の青銅器が見つかる場所にも変わったことがあります。
青銅器が見つかる場所は個人の墓や集落の真ん中などではなく、人々が生活していた痕跡がある場所からは少し離れた場所から見つかることが多いのです。
さらに、作られて間もない、まだ新品だと思われる青銅器が人里離れたところで土に埋められている、という状態で発見されることが少なくありません。
そのため、弥生時代で青銅器は日ごろは土の中に埋めることで収納しておき、祭りのときなど、必要になった時に掘り起こして使われたという説があります。
近畿地方では村の共同のものとして使われていたのでは、とも考えられています。
弥生時代の遺跡から見つかる青銅器。
それらは実用品から祭りのときに使われていた祭器として変化していったのです。