今まで、弥生時代の頃に人々が生活していた遺跡は数多く見つかってきました。
それぞれ特徴を持っており、弥生時代の人々がどういう風に生活していたのかを物語っています。
そして弥生時代にあった集落で有名なものといえば、邪馬台国。
しかし、その有名な邪馬台国のものだと断定できる遺跡はまだ見つかっていないのです。
更に、邪馬台国の場所すらまだ断定することが出来ていません。
なぜこんなにも有名な邪馬台国の場所がわかっていないのでしょうか。
邪馬台国とは
邪馬台国といえば、弥生時代に存在した有名な国です。
その存在は『魏志』倭人伝に書かれています。
それによると、日本では弥生時代に大きな争いが起きたことがあり、その争いを鎮めるために卑弥呼という女王をたてた、とあるのです。
卑弥呼を女王としてまとまっていた邪馬台国。
海を越えた国から卑弥呼宛に贈り物が届くなど、その存在は弥生時代の中でも強いものでした。
しかし、そんな邪馬台国の場所はいまだに判明していないのです。
どうやって突き止める?
邪馬台国の場所はいまだに判明していません。
邪馬台国の場所を突き止めるための参考となっている資料は『魏志』倭人伝です。
その『魏志』倭人伝には、邪馬台国に至るまでの道のりが書かれているのです。
しかし、ただ単純にその道のりをなぞればわかる、というわけではありません。
この資料に書かれている帯広郡からの行程は、二つのちがった読み取り方が出来るのです。
それに合わせて、邪馬台国があると考えられている場所の候補も二つ。
一つは邪馬台国は九州にあるという九州説。
もう一つは近畿説ともいわれる大和説です。
弥生時代にあった邪馬台国の場所を突き止めるには『魏志』倭人伝が必要不可欠ですが、その読み取り方によって場所の候補も大きく違う二つの説があるのです。
二つの説のこんな違い
邪馬台国の場所があるのが九州だという九州説。
これは、『魏志』倭人伝に書かれている邪馬台国への行程に書かれている国の起点を伊郡国として考えた時に、九州が邪馬台国の場所としていきつくところだという説です。
一方、書かれている国を名前順にたどった時に行きつくのが近畿だという説が大和、または近畿説。
この二つの説には、どちらも決め手がないため邪馬台国の場所はいまだに不明のままなのです。
そして、弥生時代の邪馬台国の場所が九州説の通りなのか、大和説の通りなのかによって、大きな違いが出ていきます。
大和説では近畿から九州北部という広い範囲で邪馬台国という政治連合が成立していたと考えることが出来ます。
一方、邪馬台国の場所が九州にあるという九州説の場合には、邪馬台国は九州北部中心の比較的小さな範囲だったと考えられるのです。
いまだ判明しない弥生時代の邪馬台国の場所。
その場所が違うことで、これほど大きな違いも生まれてくるのです。