弥生時代の青銅器と祭りの関係

海を越えて金属器が日本に伝わってきた弥生時代。

その製作技術や方法とともに伝わった青銅器や鉄器は弥生時代の日本の人々の暮らしに溶け込んでいきました。

例えば、青銅器は弥生時代の人々の祭りで使われたことがわかっています。

祭りで使われたというのは、いったいどういうことでしょうか。

スポンサーリンク
yayoi-jidai.comレクタングル大

祭り向けになる青銅器

弥生時代の頃に伝わり、全国に広まっていった金属器。

その中でも鉄器は農耕具や武器など、実用品として人々の暮らしに溶け込んでいきました。

それとは逆に、日本に伝わった青銅器は実用品としてよりも祭器として使われることが目立つようになります。

最初は実用品として伝わってきたものの、使う目的や、青銅器で作られたものの形状などが変化し、更に日本で作られるようになったことで実用品としてはあまり使われなくなっていったのです。

そんな実用品ではなくなった青銅器。

青銅器の中で実用品から祭器になったものとして有名なのは、銅鐸です。

銅鐸は朝鮮半島で使われていた鈴のようなものがルーツだといわれていますが、日本にやってきて徐々に形が変わり、巨大化して祭器として使われるようになっていったのです。

弥生時代の祭りって?

弥生時代の祭りの時に使われるようになっていった青銅器で出来た銅鐸という祭器。

この祭器が使われた祭りは主に農耕祭祀という種類の祭りでした。

この祭りは豊作を祈り、害虫や害獣が来ないよう、そして逃げて行ってくれるように願う虫送りのようなものです。

弥生時代の人々にとって、自分たちの生活の糧である田んぼや畑を荒らされ、食料が取れなくなるのは生活を続けられなくなることと同じこと。

そのため、農耕がうまく行え、自分たちが食いつなげるだけの食料を手に入れられるように願うために祭りを行っていたのだと考えられています。

祭りの道具は誰のもの?

弥生時代の人々にとって重要だった祭りに使われた青銅器で作られた祭器。

その一方で、青銅器で作られたまた別のものは墓の副葬品としてよく見つかっています。

その場合、その青銅器は個人的な所有物となりますが、祭器である銅鐸はどうだったのでしょうか。

青銅器で作られた銅鐸などの祭器は、村の祭りの中で使われるので、個人の所有物とはなりません。

そのムラやクニといった共同体が共有しているものとされていたのです。

そのため、銅鐸が見つかる場所も個人の墓などではなく、集落を見下ろす山の斜面に埋められているなど、出土する場所もほかの農耕具とは少し違っているのです。

弥生時代になって全国に広まっていった青銅器を始めとする金属器。

青銅器は実用性がなくなる一方で、祭器として使われていた銅鐸など、弥生時代の祭りには欠かせないものとなっていったのです。

スポンサーリンク
yayoi-jidai.comレクタングル大

yayoi-jidai.comレクタングル大

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする