弥生時代に全国に広まった稲作。
つまり弥生時代には水田耕作が行われるのが普通になっていったのです。
そのため、弥生時代の遺跡からは水田跡のある遺跡が多く見つかっています。
では、弥生時代に水田耕作の跡が見つかる遺跡にはどんなものがあげられるのでしょうか。
目次
縄文時代?それとも・・・
弥生時代の頃に全国に広まっていった稲作。
その弥生時代の稲作の先駆けともいえる遺跡があります。
それが、福岡県の板付遺跡です。
この遺跡は日本列島でもっとも初めの頃の姿をした水田耕作の跡がある遺跡として知られています。
実は稲作が広まったのは弥生時代ですが、縄文時代の終わりごろにも稲作は一部の地域でも行われていたのです。
それがわかるのがこの遺跡。
縄文時代の終わりに作られ、使われていた水田跡が発見されています。
この発見により、この遺跡を縄文時代晩期末ではなく、弥生時代早期とする学者もいるほど。
板付遺跡は日本列島の水田耕作の始まりを告げる遺跡なのです。
超巨大水田のある遺跡
弥生時代の水田跡が見つかる遺跡はたくさんありますが、中でも巨大な水田跡が見つかった遺跡があります。
例えば、奈良県にある中西遺跡や大阪府の安満遺跡、そして百間川原尾島遺跡に百間川沢田遺跡など。
奈良県にある中西遺跡の水田跡は低い畦で区切られており、その面積はなんと二万五千平方メートルもあるのです。
川をせき止めた遺跡とは
弥生時代の人々は水田耕作に様々な工夫を凝らしていきました。
水田に水を取り込んだり、排水する施設である灌漑施設を設けたこともその工夫の一つ。
そして、水田に欠かせない水を取り入れるためになんと河川をせき止めて利用した水田のある遺跡もあります。
その河川をせき止めた施設をもつ遺跡が、兵庫県にある岩屋遺跡。
水田耕作に欠かせない水をどのように水田に取り込むか、そのための様々な工夫が弥生時代になされていた事がわかる貴重な遺跡です。
これらの様々な特徴をもつ遺跡を見ていくと、縄文時代から弥生時代にかけて、人々が水田耕作に様々な工夫を凝らしていたことがわかってきます。
それもそのはず、こうして水田耕作で収穫した米は人々の命をつなぎ、縄文時代と違って食料をためておくことが出来るなど、人々の生活をより安定したものへと変えていけるほど大事なもの。
そして灌漑施設をつくるなどの工夫のほかに、水田耕作には多くの労働力、つまり人手が必要になってきます。
弥生時代に稲作が広まったということは、水田耕作に必要な人出が確保できたということ。
そのため、弥生時代に超巨大な水田耕作の跡をもつ遺跡があるということは、それまで以上に弥生時代に人口が増えたということを表しているのです。