弥生時代の卑弥呼と邪馬台国

弥生時代といえば、邪馬台国と呼ばれる国が存在していた時代ということはよく知られています。

学生の時に歴史の授業で弥生時代の事を学ぶときに必ずと言っていいほど取り上げられる邪馬台国とその女王、卑弥呼。

どんな国であり、どんな人物だったのか、振り返ってみましょう。

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邪馬台国はどこに?

弥生時代の時に存在していた邪馬台国。

邪馬台国については様々な本が出版されるなどして有名ですが、実は存在していた場所すらもわかってはいないのです。

そもそも、邪馬台国や卑弥呼に関して大きな手掛かりとなっている資料は『魏志』倭人伝という中国の資料です。

邪馬台国とその女王、卑弥呼に関して書かれているこの資料では、邪馬台国への道のりについても書かれています。

しかし、その道のりに関して二つ解釈の仕方があり、邪馬台国はどこにあるかについての論争が続いています。

その二つが大和説と九州説です。

このどちらの説で解釈するかによって、弥生時代に存在した邪馬台国が九州にあったのか、それとも近畿にあったのかが変わってくるのです。

有名でありながらいまだにあった場所がわからず、議論が続く弥生時代の国、それが邪馬台国なのです。

女王誕生

邪馬台国は卑弥呼という女性が女王として君臨していました。

しかし、もともとは女王ではなく男性が王として君臨していたのです。

邪馬台国について書かれている『魏志』倭人伝はこう伝えています。

倭国にはそれまで男の王がいたが、大きな争乱が起こったころがあった。

そして、その争乱は長く続き、治まる様子がなかった。

しかし、卑弥呼という女性を女王としたところ、争乱がおさまり、邪馬台国を中心とした30ほどの国の連合が出来た、と書かれているのです。

もともと男性が王となっていた邪馬台国。

しかし、争乱が続いたため、女王を選び、国が安定したと資料は伝えているのです。

卑弥呼はどんな人?

弥生時代の邪馬台国とその女王、卑弥呼についてはまだ謎のままのことが多く残っています。

わかっているのは、魏の皇帝に使いを送り、「親魏倭王」の称号と多くの銅鏡をもらっていたこと。

夫を持たず、弟の補佐で政治を行っていたこと。

そしてめったに姿は見せないものの、鬼道に仕え、よく妖をもって衆を惑した、とも『魏志』倭人伝は伝えているのです。

そして晩年、狗奴国と戦い、247年ごろに亡くなった、ともされています。

その後の邪馬台国は、再び男の王が選ばれたものの国が安定せず、卑弥呼と同じ一族で13歳ほどの娘、壱与が王となった、と伝えられています。

そしてその後、弥生時代の邪馬台国の消息は途切れてしまい、どうなっていったのかは詳しくはわかっていないのです。

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