弥生時代の中国との交流

島国である日本で暮らしている日本人。

普段は当たり前すぎて意識しないことですが、島国であるからこそ、日本は海を越えた先にある他の国から伝わってきた全く新しい要素を持つ技術や文化に影響されてきました。

そして、それを自分たちの文化に取り入れてきたのです。

他の国との交流は古くから続いており、すでに弥生時代には新しい文化を取り入れ、発展していっていました。

では、日本の近くにある国、国との交流は、弥生時代にはどのように行われていたのでしょうか。

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最も親しい国は?

弥生時代になると、縄文時代よりも海外の国との交流が深まっていきました。

稲作や金属器の伝来などの弥生時代に、渡来人とともに伝わった新しい要素を持った文化や技術の多さからも当時の海外との交流の頻繁さが読み取れます。

特に北九州では海外の国との交流が盛んにおこなわれ、そこから他の国から入ってきた新しい文化が日本各地に広まるなど、弥生時代の人々の交流の中心地となっていました。

そのころ特に交流が深かった国が、朝鮮半島と中国です。

その二つの国は日本と近い位置にあることもあり、弥生時代の日本にとっては特に頻繁に交流していた国でした。

大きくなる漢の影響

弥生時代にはすでに朝鮮半島から様々な文化が日本に伝わり、人々の交流は盛んにおこなわれていました。

一方で弥生時代の頃は中国が力を増していた時代でもありました。

そしてその中国である漢の影響は朝鮮半島にも伝わり、その朝鮮半島を通して日本も中国の影響を受けるようになったのです。

そして更に力を増した中国である漢は日本とたびたび直接交流するようになりました。

中国から称号を贈られるということは?

日本が弥生時代だった頃の中国、つまり前漢の歴史が書かれている『漢書』地理志にも当時中国から倭国、倭人と表現されている日本、日本人について書かれている部分があります。

そこには、倭人の社会は百余国にわかれ、楽浪郡に定期的に使者を送ってきたと書かれているのです。

弥生時代にあった邪馬台国を統べる女王として知られている卑弥呼も中国には度々使者を送っています。

そして、その中国との交流では、中国の皇帝から卑弥呼は「親魏倭王」という称号と金印などを受け取ったとされています。

その金印はいまだに見つかってはいませんが、邪馬台国の卑弥呼が中国の皇帝からその称号と金印を受け取ったということは大きな意味を持ちます。

中国の皇帝から金印を送られるということは、中国の皇帝が日本の卑弥呼を臣下として認めたということなのです。

島国である日本の卑弥呼に金印と称号を授け、日本とも積極的に交流していた中国は、当時東アジアの中で急激に力をつけ、日本を含めた他の国々との交流を深めていったのです。

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