日本人の主食である米。
弥生時代に稲作が伝わったころから日本人は米を作る技術を磨いてきました。
しかし、磨いたのは米作りの技術だけではありません。
よりおいしく、長い期間保管して置けるように脱穀する方法や倉庫のつくりも改良されていったのです。
弥生時代の人々はどんな風に米を脱穀し、どんな倉庫を使っていたのでしょうか。
目次
より長持ちさせるには?
弥生時代、稲作が日本に広まっていきました。
そうして収穫した米は袋や壺に入れて保管されていました。
その時、より長い期間保管して置けるようにするポイントがあります。
それが、収穫した時点では米を脱穀しないことです。
米を脱穀せず倉庫で保管し、食べる時に脱穀することでより長期間保存しておけるのです。
そして必要な分を脱穀するとき、弥生時代の人々が使った道具は木臼と堅杵を使いました。
弥生時代の遺跡から発掘された木臼は使い込まれて臼の内側の底が深くすり減っており、弥生時代の人々がよく使っていた道具だということがわかっています。
また、弥生時代の脱穀は木臼に入れた米を堅杵を使って数人でついておこなっていました。
当時の遺跡から発掘した銅鐸には米を脱穀している弥生時代の人々の姿が描かれたものがあり、そのことからも弥生時代にはどのように脱穀していたのかがうかがえます。
保管倉庫は二種類あった!
弥生時代、米を保管するための倉庫も変化を重ねていきました。
弥生時代の最初には米を保管する倉庫は2種類。
地下に袋状の穴を穿った穴倉と、高床倉庫です。
しかし、穴倉は弥生時代の中頃に姿を消していきます。
一方、高床倉庫は弥生時代の初めからずっと使われ続けました。
弥生時代の初めから使われ続け、穀倉ともよばれる高床倉庫。
米を保管するこの倉庫からはその配置から当時の貯蔵物の管理の仕方も読み取ることが出来ます。
弥生時代の米を保管する倉庫はその配置からも工夫を凝らされていたのです。
米を保管する倉庫の見分け方
こうして米を保管する倉庫は弥生時代を通して変化を続けていました。
しかし、高床式の掘っ立て柱の建物がすべて米を保管するために使われたとは断定できないのに、どうやって弥生時代に米を保管していた倉庫だとわかるのでしょうか。
弥生時代、堅穴式住居よりも掘立柱の建物の数は多くありませんでした。
もともとそれほど数がなかった掘立柱の建物は、弥生時代の中頃から数を増やしていることがわかっています。
弥生時代の中頃、つまり米を保管していた穴倉が姿を消していく時期と重なります。
つまり、穴倉の代わりに高床倉庫が増えていったと考えられるのです。
こうしたことを重ねて検証したことで、殻倉だろうと考えられるようになっていったのです。
広く稲作が行われていた弥生時代。
稲作が行われると同時に、米を作る技術だけではなく、米を保管する倉庫の作り方などの様々な技術も新しくなっていったのです。