現代に生きる私たちが文書の資料もほぼ残っていない縄文時代や弥生時代の様子を知る大きな手掛かりになってくれるのは、当時の遺跡から見つかる人々が暮らした痕跡です。
例えば貝塚、土器、そして遺跡など。
それらの事を細かく調べることで当時の人々の暮らしが見えてくるのです。
しかし、そんなものの中でもどういう風に使われたのか、いったい何のためのものだったのかがわからないものがあります。
そんな詳しくはわかっていないものの一つに弥生時代の遺跡から見つかる物見やぐらがあげられます。
ただの監視台という役割だったと言い切れない物見やぐらとは?
物見やぐらがシンボルの遺跡とは
弥生時代の遺跡から見つかる物見やぐら。
そんな物見やぐらがシンボルとなっている遺跡が吉野ケ里遺跡です。
大きな吉野ケ里遺跡は様々な面で有名であり、弥生時代の遺跡の代表格でもあります。
吉野ケ里遺跡で物見やぐらのあととされる6本柱の掘立て柱建築の痕跡が4か所から見つかっているのです。
弥生時代の吉野ケ里遺跡には、その場所に約20メートルの物見やぐらが建っており、そこからは平野と有明海を眺めることが出来たといわれています。
吉野ケ里遺跡は現在でいう絶景を望むスポットだったのです。
その役割とは
物見やぐらから絶景が見られるといっても、もちろんただ展望台として使われていたわけではありません。
備蓄されている食料をめぐって人同士が争うようになった弥生時代では、近づいてくる敵をいち早く見つけることがとても大切でした。
物見やぐらは、そうやって近づいてくる敵をいち早く発見、監視するなどの役割を持った建物だったのです。
ただ、実は物見やぐらの役割はそれだけだったとも言い切れません。
敵をいち早く発見、監視するという役割から、集落の境界近くに配置されていた吉野ケ里遺跡の物見やぐら。
ただ、すべてが境界近くに建っていたわけではありません。
実は何か催事が行われていたと思われている、集落の中心となるような場所にも建てられていたのです。
このことから、物見やぐらは単なる監視台ではなく、四方を祀る祭祀的な面を持ち合わせることもあった建物だともされているのです。
物見やぐらと判明した理由とは?
そんな風に、実は様々な役目を持っていたと思われる物見やぐら。
では、例えば吉野ケ里遺跡では、なぜ見つかった建物の痕跡が物見やぐらのものだと判明したのでしょうか。
その理由は、その痕跡が集落の境界だという場所にあるだけではありません。
遺跡から読み取ることが出来た柱の深さがずいぶん深い事、更にその建物の基礎となる痕跡が、その跡が物見やぐらだったことを指し示しているのです。
弥生時代の遺跡から見つかる物見やぐらのあと。
役割が監視台だけではなかった物見やぐらの跡だと見抜くには、その配置場所だけではなく、柱の深さなどを知らべあげなければならないのです。
そうやって初めて、監視台や祭祀的な面を持っていた物見やぐらという建物だと判明するのです。