日本では弥生時代がなかった地域が二つあります。
それが北海道と沖縄です。
北海道と沖縄には弥生時代や弥生文化がなかった代わりとなる文化が育ち、弥生時代とは違う時代が訪れていました。
弥生時代の代わりに沖縄に訪れたのは貝塚時代です。
この沖縄ならではの貝塚時代、そして貝塚文化とは?
海とともに生きる
日本の各地に弥生時代が訪れていたころ、沖縄には貝塚時代という時代が訪れていました。
弥生時代とは違う貝塚時代、そしてその中で沖縄が育んでいった貝塚文化。
はたしてどんな時代であり、文化なのでしょうか。
沖縄は海に囲まれており、海の幸に恵まれている土地です。
本州が弥生時代であったころも同じでした。
そんな海の幸に恵まれ、貝類を多く獲っていたため、そのころの沖縄の文化、時代を貝塚文化、貝塚時代といいます。
貝塚時代の沖縄は海から採れる資源が豊富だったため、その資源に頼ることが多かったことが特徴です。
日本の各地に弥生時代が訪れていた時、沖縄を訪れた貝塚時代は海の幸に恵まれ、育まれた時代であり、それゆえに発達した文化が特徴だったのです。
弥生文化も知っていた?
貝塚時代の頃の沖縄は独特の文化を育んでいました。
しかし、一方で弥生時代の本州とは全くつながりがなかったわけではありません。
本州とつながりがあったことは当時の沖縄の遺跡から見つかったものでもわかります。
当時の沖縄の人々は、弥生時代のなかにいた九州の人々と交易をおこなっていました。
そのため、その人々を通して弥生時代の文化を知ることが出来たのです。
例えば、当時の沖縄からは交易のあった九州から運ばれた弥生時代の土器も見つかっています。
沖縄では、九州などを通じて弥生時代の文化などを知ることが出来ていたのです。
開放的な沖縄
弥生時代の九州と交易を行っていたことからもわかるように、沖縄は閉ざされた環境だったわけではありませんでした。
実は、当時の沖縄の文化の大きな特徴の一つに、弥生文化の九州と交流を深めていたことがあげられます。
そのことを表すように、九州からは奄美・沖縄諸島でとれる大きな貝で作った腕輪が埋葬された人骨から見つかっているのです。
その腕輪の材料となる貝は、交易に備えて保存されていたためか沖縄の遺跡からたくさん見つかっており、沖縄と弥生時代の九州との交流の深さがうかがい知れます。
ちなみに、その腕輪は九州の鉄製品などと交換されたと考えられています。
そのように、弥生時代の全く文化の違う九州と貝塚時代の沖縄が交流を深めていたように、当時の沖縄は本州とは全く違う文化を育んでいたものの、決して閉鎖的ではありませんでした。
逆に、その交流を活かしながら沖縄の独特の文化を育んでいったのです。