弥生時代に起こった村から国への動き

縄文時代の頃、人々は小さな集団を作り、暮らしていました。

しかし、弥生時代に稲作が始まると、縄文時代のような小さな集団ではなく、より大きな集団で暮らすようになっていきます。

縄文時代の集団を村、弥生時代の集団を国とすると、弥生時代は人々の集団が村から国へと変わっていく時代なのです。

では、弥生時代に起きた村から国への動きはどんな風に起こっていったのでしょうか。

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争乱の時代、来る

縄文時代のころ、人々は小さな集団で暮らしていました。

いわば、村です。

しかし、弥生時代になり、稲作が始まると、そこに変化が起きていきます。

人々の集団がよりおおきくなり、縄文時代の集団を村とすると、弥生時代の人々は国といえる集団で暮らすようになったのです。

そして稲作によって収穫できた備蓄食料を狙って、人々が争いあうようになるのです。

どの地域であっても、耕作を行う農耕社会が訪れたことで、人同士の戦いのための武器がつくられ、人々が暮らす集落にも外からの侵入を阻む防御施設がつくられるようになりました。

弥生時代は縄文時代とは打って変わり、人同士が争う時代になったのです。

国の出来方

弥生時代に入って、人同士が争いあう時代が訪れます。

それまで小さな村としての集落で暮らしていた人々ですが、その状況も変わっていきました。

国が出来るようになったのです。

では、村と国はとういった違いがあるのでしょうか。

人々が暮らしている集落には、力の強い集落と力の弱い集落とがありました。

弥生時代では、力を持った集落は近くにある自分よりも弱い集落をいくつか自分の集落に加え、その規模を大きくしていったのです。

そして縄文時代の頃にあった村としての集落よりも、力を持ち、規模が大きくなった弥生時代の集落を国といいます。

弥生時代にはこうして国が出来上がっていったのです。

邪馬台国という国

弥生時代は村から国への動きが活発になっていった時代ですが、そうして出来上がった国の中で有名なところがあります。

それが邪馬台国です。

中国の『三国志』『魏志』倭人伝にその国のことが書き残されています。

それによると、倭国では二世紀の終わりごろに大きな争乱があり、なかなかおさまらなかったとあります。

しかし、諸国が共同で邪馬台国の卑弥呼という人物を女王として立てたことで、その長い争いがやっと終わりを告げたというのです。

そうして邪馬台国を中心として、30ほどの国の連合が生まれたのです。

しかし、弥生時代の村から国への動きの中でも特に有名なこの邪馬台国はいまだにその場所が判明してはいません。

いくつか候補になっているところはありますが、いまだ詳しい場所は謎のままなのです。

弥生時代は争いの時代。

そして人同士が争うという状況を背景として村から国への動きが活発になっていくのです。

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