弥生時代の集落では、縄文時代に人々が暮らしていた集落には見られなかったものが出来てきました。
それが濠です。
弥生時代の集落に必要とされ、増えていった濠。
濠が必要とされた理由はときには集落の場所を決める理由にもなりました。
そんな弥生時代の濠と集落とは?
濠のある集落が増えるまで
弥生時代に人々が住んでいた家は堅穴住居が一般的でした。
人々が住む堅穴住居のほかに、平地式の建物や高床倉庫が集落にはありましたが、人の数が増えるとともにその住居も増え、弥生時代には縄文時代よりもさらに大きな集落ができ始めます。
それと同時に、深い濠や土塁をめぐらした環濠集落が増えていったのです。
これは集落がためている米などの食料を奪われないようにと弥生時代の人々が知恵を絞った結果生まれたものでした。
そして、弥生時代に食料を奪いに来る敵とは、他の集落の人のことであり、弥生時代は人と人とが食料をめぐって戦い始めたために濠などの防御が必要とされた時代だったのです。
敵に襲われない集落の場所は?
人に襲われるようになった弥生時代の集落は、襲われないように更に知恵を絞りました。
まず、防御施設となる濠を更に工夫します。
そのため、弥生時代の濠は時に外濠と内濠の二重構造となっていたり、さらには三重構造となっている集落も出てくるのです。
更に、集落をつくる場所にもこだわりました。
高地性集落といって、山頂などに作られる集落も増えたのです。
山頂に集落をつくると、その集落の人々にとっては日常生活が不便になってしまいます。
しかし、あえて山頂などの不便な場所に集落をつくったのは、戦争に備えるために選んだ立地だったからだといわれているのです。
弥生時代のころから、そのようにして人々は立地戦略を立てていたのです。
濠の内側にあるものは?
弥生時代に増えた濠ですが、実は地域によってはその内側には人々が住む住居がないことがありました。
人々が住む住居を囲むように濠が巡らしてある、と思いがちですが、実際はそうではなかった集落もあるのです。
実は濠の内側にあるものは食料を貯めるための貯蔵穴ばかりで、人々は濠の外側に集落をつくって住んでいたケースもあります。
これは、地域による違いです。
近畿地方で一般的なタイプは人々の集落が濠の内側にあるタイプですが、それ以外の地域では濠の内側にあるものは貯蔵穴ばかりで人々が住む集落は濠の外側にある、というタイプが一般的な地域もあったのです。
また、濠の内側に人々の住む住居を作る近畿地方に多いタイプでも、水田やお墓は濠の内側ではなく、外側に作られていました。
弥生時代の集落と濠には、集落を守るための立地戦略や防御を高める工夫が加えられていましたが、必ずしもその濠の内側にあるものは人々が住む住居というわけではなかったのです。
濠を作ることで、弥生時代の人々が本当に守りたかったものは食料だということがこのことからも読み取ることが出来るのです。