弥生時代の遺跡から発掘されるものの一つである銅鐸。
銅鐸は教科書などにも載っているので、聞いたことがある人も多いはず。
弥生土器などと同じく、遺跡からたくさん発見されています。
しかし、実は銅鐸には、使い方など、私たちの知らない変化を繰り返してきた面があるのです。
では、弥生時代の銅鐸の使い方などの変化とは?
祭器への変化?
そもそも弥生時代の遺跡から発掘される銅鐸は、もともと海を越えて日本にやってきたものです。
もともと、日本ではなく朝鮮半島などで使われていた銅鐸。
朝鮮半島で使われていた銅鐸は鈴のようなものとして鳴らされるという使い方をされていました。
実用品として銅鐸は使われていたのです。
一方、日本では銅鐸は実用品というよりは祭器としての使い方をされていたことで知られています。
本来、銅鐸はつるして鳴らすものでした。
しかし、実用品としてではなく、祭器となっていく中で巨大化し、吊るして使うという本来の使い方が出来ないようになっていきます。
そして、吊るすのではなく、置いて使うという使い方になっていったのです。
何に使われた?
実用品として弥生時代の日本に伝わりながら祭器として使われるようになった銅鐸。
しかし、祭器といってもどんな風に使われるようになったのでしょうか。
弥生時代の銅鐸がいったい何に使われたかを知る手がかりは、銅鐸の構造、絵画、出土状態。
構造を見ると、吊り手があり、中には舌と呼ばれる棒状のものがたらしてあります。
その部分を見てみると、繰り返し舌が打ち付けられ、内側がすり減っているものがあります。
これはその当時銅鐸が音響具としての使い方をされていたことを示すものです。
しかし、やがて吊り下げて音色を鳴らすために必要な吊り手は板状となり、吊るして使われなくなったことがわかります。
こうして銅鐸の構造からみると徐々に実用品から祭器への変化がわかるのです。
そして弥生時代の絵画からは豊穣を祈る農耕儀礼のパフォーマンスに銅鐸が使われていたことも読み取れます。
普段の収納場所は?
弥生時代に祭器として使われるようになった銅鐸。
その銅鐸は普段、思わぬところに収納されていたことがわかっています。
実は銅鐸が見つかる場所を調べてみると、いくつかの銅鐸が土で支えながら丁寧に埋められていたり、同じように立てて並べてあったりした状態で見つかっています。
そこで、儀式のときに祭器として使う以外、普段は土の中に埋められており、必要な時だけ掘り出して使ったのだと考えられているのです。
銅鐸の埋められ方以外の証拠として、まだ新品とみられる銅鐸も他と同じように土に埋められていたことがあげられます。
実用品として日本に伝わりながらも、徐々に大きくなり、吊るされて使われることもなくなった銅鐸。
そんな銅鐸は音響具としてではなく、日本では豊穣の儀式に必要な祭器としての使い方をされるようになっていったのです。